秘密婚はご免!堂々と愛する先輩こそ本命

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秘密婚はご免!堂々と愛する先輩こそ本命

GoodNovel 完結

病室の中、川辺千春(かわべ ちはる)が甘えるように村瀬恭弥(むらせ きょうや)の胸へ身を寄せていた。 恭弥はひと匙ずつ、愛おしそうに彼女の口元へお雑炊を運んでいる。 「恭弥さん、あんまり激しくするから……血が出ちゃったじゃない」 甘えるような千春の言葉に、恭弥は優しく応じた。 「つい夢中になっちゃってさ。次は気をつけるから、いい子にして」 病室の外では、菅野麻奈美(かんの まなみ)が検査結果の用紙をぎゅっと握りしめて立ち尽くしていた。 胸が張り裂けそうに締めつけられ、息をすることすら苦しい。 用紙には「妊娠2か月、胎児の発育は順調」と記されている。 病室にいるのは、紛れもなく夫の恭弥だった。 かつて一生愛し続けると誓ってくれた男だ。 10日前、残業が続くと告げて家に戻らなかったのは、こうして別の女と密会を重ねていたからだった。

チャプター (1)

第1章

病室の中、川辺千春(かわべ ちはる)が甘えるように村瀬恭弥(むらせ きょうや)の胸へ身を寄せていた。 恭弥はひと匙ずつ、愛おしそうに彼女の口元へお雑炊を運んでいる。 「恭弥さん、あんまり激しくするから……血が出ちゃったじゃない」 甘えるような千春の言葉に、恭弥は優しく応じた。 「つい夢中になっちゃってさ。次は気をつけるから、いい子にして」 病室の外では、菅野麻奈美(かんの まなみ)が検査結果の用紙をぎゅっと握りしめて立ち尽くしていた。 胸が張り裂けそうに締めつけられ、息をすることすら苦しい。 用紙には「妊娠2か月、胎児の発育は順調」と記されている。 病室にいるのは、紛れもなく夫の恭弥だった。 かつて一生愛し続けると誓ってくれた男だ。 10日前、残業が続くと告げて家に戻らなかったのは、こうして別の女と密会を重ねていたからだった。 第1話 麻奈美は自分と瓜二つの千春の瞳を見つめながら、脳裏に過去の記憶が蘇る。 恭弥の家に初めて連れてこられた夜、ひどく緊張していた。 恭弥は優しい眼差しで自分の顔に黒い薄布を被せ、澄んだ瞳だけを覗かせた。 何度も熱い口づけを落とされ、すっかり身を委ねてしまったあの夜。 翌日、恭弥はまっすぐ見つめて問いかけてきた。 「俺と、秘密で結婚してくれる?」 麻奈美は小さく頷いた。 挙式はなく、ただ婚姻届を提出しただけ。 指輪が1つと、親しい知人2、3人からの祝福があるだけの慎ましい結婚だった。 それからの3年間、毎日のように愛し合って慈しまれた。 だが、千春が帰国したあの日―― 恭弥はひどく酒に酔い、貪るように求めてきた。 事を終えた後、男は自分の首筋に顔を埋め、掠れた声で呟いた。 「……あのとき去っていったくせに、どうして今さら戻ってきたんだ?」 そのときになって、ようやく悟った。 恭弥は自分を見ていたのではなく、別の女を重ねていただけだったのだと。 自分はただ、千春の身代わりに過ぎなかった。 急に何もかもが虚しくなり、どっと疲労が押し寄せる。 3年の結婚生活も、もう潮時だった。 病室の外に立つ麻奈美に気づいた千春は、挑発的な笑みを浮かべ、恭弥の胸元へ甘えるように飛び込んだ。 「ねえ、結婚したって聞いたけど……私のこと、もう要らなくなっちゃったの?」 恭弥は愛おしそうに頭を撫で、優しく微笑む。 「そんなわけないだろ。俺が一番愛してるのはお前だけだ」 千春は勝ち誇ったように麻奈美を一瞥し、拗ねた声を上げた。 「でも昨日、避妊してくれなかったじゃない。妊娠したらどうするの?私、子供なんて産みたくないよ。体型が崩れちゃうもん」 「お前にそんな苦労はさせないさ。麻奈美が跡継ぎを産んだらすぐに離婚して、親権は俺が引き取る。そうすれば、お前がその子を育てて、ママって呼ばせられるよ」 頭を殴られたような衝撃が走る。溢れ出る涙を、もう止めることができなかった。 心から喜び、待ち望んでいた我が子の誕生。それなのに恭弥は、この子を奪い、千春に育てさせようとしている。 「じゃあ、あの人とはいつ離婚してくれるの?」 千春の問いに、恭弥は少し間を置いて答えた。 「もう少し先だな。今はお父さんが孫の誕生を心待ちにしてるから……」 その言葉が無慈悲に胸へ突き刺さる。 これ以上は耐えられず、麻奈美はふらつく足取りでその場を後にした。 恭弥は、一度たりとも自分を愛してなどいなかった。 都合のいい道具として見られていただけだ。 感情も、尊厳も、お腹に宿る我が子さえも、すべては千春を喜ばせるための駒に過ぎない。 あてもなく歩いていると、わずかに開いた診察室から医師たちの話し声が漏れ聞こえてきた。 「さっきの病室、人気女優の川辺千春だよな?付き添ってるのはムラゼテクニックの村瀬社長だろ。絵に描いたような美男美女だよな」 「病名は……黄体破裂による大出血か。ずいぶん激しかったみたいだな」 「相当アツアツらしいぞ。看護師の話じゃ、先日川辺さんが帰国したときも、村瀬社長が999本のバラを用意して迎えに行ったらしい」 頭を強く殴られたような衝撃に襲われ、麻奈美はその場に立ち尽くした。 どれほどの時間が流れただろうか。涙を拭い、産婦人科の診察室へと向かった。 「先生、中絶手術をお願いします。この子を産むわけにはいかないんです」 掠れた声は、わずかに震えていた。 医師は困惑と気遣いを滲ませ、眉をひそめる。 「菅野さん、胎児の発育は極めて順調ですよ。中絶は母体への負担も大きいですし、原則として配偶者の同意も必要ですが……」 自嘲の笑みが口元に浮かんだ。 ただの産む道具に成り下がることも、子供が身勝手な欲望の犠牲になることも、絶対に耐えられない。 「もう決めました。夫とは現在、離婚の手続きを進めています。婚姻関係の破綻に関する誓約書にはサインしますし、責任はすべて私が負います」 奥歯を噛み締め、告げた声に迷いは微塵もなかった。 3時間におよぶ手術を終え、処置台から降りたときには、顔から完全に血の気が引いていた。 壁にすがりながら廊下のベンチに腰を下ろす。 下腹部に残る鈍い痛みを感じながら、ずっと断り続けていた番号へ電話をかけた。 「多賀先輩ですか。私、『エリート計画』に参加します。15日後に出国します」 第2話 電話の向こうで、多賀幸人(たが ゆきと)は声を弾ませていた。 「よかった、菅野さん。谷岡先生もみんなも、ずっと君のことを気にかけていたんだ。来てくれると知ったら絶対に喜ぶよ」 かつて恭弥と結婚するため、麻奈美は海外留学を断念した。 この3年間、恩師である谷岡京志郎(たにおか きょうしろう)からの幾度とない誘いを断り続け、家庭に入って恭弥に尽くしてきた。 「ただ、菅野さん。この研究は極めて高い機密性が求められる。参加すれば数年、下手をすれば数十年は戻れないかもしれない。ご家族のほうは大丈夫なのか?」 麻奈美は小さく息を漏らした。 「もう……家族はいませんから」 母を亡くして以来、恭弥だけを唯一の家族だと信じてきた。 だが結局のところ、自分は身代わりの道具に過ぎなかった。 どうせ離婚を突きつけられるなら、自分の足で去ったほうがいい。 電話の向こうで、幸人が静かに息をついた。 「……こっちに来たら、俺たちみんなが君の家族だよ」 電話を切り、麻奈美はそっと壁に身を預けた。 そのとき、正面から不意に声が飛んでくる。 「麻奈美?」 顔を上げると、恭弥が千春に寄り添い、慎重に支えながら歩いてくるところだった。 千春はすっかり胸元へ身を預けている。 恭弥は麻奈美の青白い顔を見つめ、痛ましげな色を浮かべた。 「こんなところで何をしてるんだ?」 麻奈美は深く息を吸い込み、喉の奥に広がる苦みを押し殺す。 「……生理痛がひどくて、診てもらいに来たの。あなたは?今夜は残業じゃなかったの?」 澄んだ瞳で見据えられ、恭弥はばつの悪そうな表情を浮かべた。 「千春の具合が悪くなってな、病院まで付き添ってきたんだ。うちのアンバサダーだし、立場上、面倒を見るのは当然だろ」 麻奈美は心の中で冷たい笑いが込み上げる。 その面倒を見るというのは、ベッドの上まで含むのだろうか。 千春がわざとらしげに微笑みながら口を挟んできた。 「こちらが奥さんですか?私と目がそっくりですね」 「奥さん」という言葉に、あからさまな棘を込めている。 胸に鋭い痛みが走ったが、麻奈美は何も言わなかった。 恭弥の視線が麻奈美から離れないのを見て取ると、千春は腕にすがりつき、か弱い声を出す。 「恭弥さん、急に気分が悪くなってきちゃった……家まで送ってくれる?」 千春の辛そうな様子に、恭弥は迷うように視線を向けた。 「千春の具合が良くないみたいで、俺、先に……」 「行っていいわよ」 言葉を遮った。 どちらが優先されるかなど、最初から分かっている。 「大したことないから。私はあとでタクシーで帰るわ」 恭弥はあからさまに安堵の息を漏らした。 だが、あまりに落ち着き払った態度に、どこか胸騒ぎを覚えているようでもあった。 家に帰ったら埋め合わせをすればいい―― そう自分に言い聞かせるようにして、千春の肩を抱きかかえて去っていく。 遠ざかる2人の背中を見送りながら、麻奈美は自嘲の笑みを浮かべた。 タクシーで帰宅すると、家中のいたるところにあるペアの品々が目に刺さった。 壁に飾られた仲睦まじいツーショット写真、テーブルの上に並ぶお揃いのマグカップ、ソファに置かれた彼の手編みのブランケット。 かつては温もりに満ちていた記憶の数々が、今では鋭い刃となって心を抉ってくる。 麻奈美は息を整え、思い出の品を1つずつ大きな段ボールへと放り込んでいった。 壁から外した写真立ての中では、2人が屈託のない笑みを浮かべている。目頭を熱くしながら、写真の中の夫の輪郭を指先でなぞった。 結婚して3日目、恭弥に連れられて撮りに行ったものだ。 あの頃の彼は、よく麻奈美の瞳を食い入るように見つめていた。 「麻奈美のこの瞳は、いくら見ていても見飽きないよ」 今なら分かる。 自分の瞳を通して、千春の姿を追いかけていただけだった。 胸を締めつける痛みを振り払うように、写真を段ボールへ投げ入れた。 ソファに腰を下ろし、これまでの日々に思いを馳せながら、過去の温もりを無理やり消し去ろうとする。 結婚当初の自分はぎこちなく、恥ずかしがってばかりで、まるで夢の中にいるようだった。 恭弥は仕事の予定を放り出して買い物に付き合い、気に入った小物を買い集めてくれた。 居心地よく過ごせるようにと家の中を整え、この家の女主人として馴染めるよう手を尽くしてくれた。 付き合っていた期間の穴埋めだと、映画に連れて行ってくれたり、ジェットコースターに乗ったり、何枚も写真を撮ったりした。 あんなにも幸せだったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。 答えは見つからず、平らになった下腹部に手を当てると、自然と涙が溢れ出た。 それらの品々をまとめ終える頃には、3時間以上が過ぎていた。 さらにクローゼットの奥から、大きな箱を引きずり出す。 中には、この3年間で恭弥から贈られたプレゼントが詰まっていた。 誕生日には、宝物のように大切に慈しむと誓って贈られたピンクダイヤモンドのティアラ。 バレンタインには、出会えなかった23年分を埋めると書かれた手紙と、999本のジュリエットローズ。 結婚記念日には、永遠に愛し守り抜くと自らデザインして仕立てたダイヤの指輪。 麻奈美自身は贅沢品に執着などなかったが、恭弥はいつも抱きしめてこう言っていた。 「俺の麻奈美には、一番いいものだけを手にしていてほしいんだ」 涙を拭い、すべての荷物をリビングへと運び出す。 暖炉に火をつけ、かつての思い出が目の前で灰へと変わっていくのを静かに見つめた。 勢いを増していく炎の揺らめきを眺め、ぼんやりと立ち尽くしていたとき、恭弥が帰宅した。 暖炉の中で白く崩れる灰を見て怪訝そうにした恭弥は、燃え残っていたブランケットの切れ端に目を留めた。 そこには、2人のイニシャルが刺繍されている。 【MK&KM】 恭弥は熱気も構わず駆け寄り、素手で残骸を引っ張り出した。 「麻奈美……お前、これ……何をしてるんだ?」 見たこともないほどの激しい動揺を浮かべ、麻奈美の手を掴む。 ――本当によくできた演技だね。 麻奈美は何気ない仕草で手を振りほどき、小さく微笑んだ。 「なんでもないわ。ずいぶん古くなってきたから、そろそろ新しいのに買い替えようと思っただけ」 恭弥の顔に複雑な色が交錯し、何を考えているのか測りかねる。 やがて、重いため息を吐き出した。 「要らないなら別にいいけどさ……また今度、新しいのを買ってやるから」 「ええ」 冷淡に一言だけ返すと、踵を返して部屋の奥へと向かった。 去っていく背中を見送りながら、恭弥の胸の奥がきりきりと痛む。何かが手から遠ざかっていくような、得体の知れない焦燥感が募る。 「麻奈美!これ、見てくれよ」 第3話 振り返ると、そこにあったのは半月ほど前に何気なく口にした店のスイーツだった。 千春が帰国したあの日から、恭弥は10日間も家に寄りつかなかった。 男は期待に満ちた眼差しで見つめてくる。 以前の麻奈美なら、喜んで胸に飛びつき感謝を伝えていただろう。 だが今、箱に収まる繊細な洋菓子を見つめても、浮かぶのは乾いた笑みだけだった。 「最近、体型を気にしてるの。甘いものは控えてるから」 あのとき欲しかったものも、時が過ぎればどうでもよくなる。 この男と同じだ。 3年という月日が経ち、もう愛し続ける気力すら残っていなかった。 恭弥の表情にかすかな落胆がよぎったものの、麻奈美を抱き上げ、リビングの奥へと運んだ。 「俺にとっては、どんな姿のお前だって一番綺麗だよ」 夜、ベッドに横たわり、お腹に手を当てて物思いに耽っていると、背後から恭弥が抱き寄せてきた。 首筋に顔を埋めようとした瞬間、麻奈美は拒絶するようにその体を押し戻す。 恭弥は居心地悪そうに手を彷徨わせ、焦りを滲ませた声を漏らした。 「この10日間構えなかったことを怒ってるのか?会社がどうしても忙しくて、俺……」 この期に及んでも、平然と嘘を重ねる。 麻奈美は言葉を遮った。 「忙しいのは分かってる。怒ってなんかいないわ」 恭弥の顔に安堵の笑みが戻る。 「やっぱり、お前は聞き分けが良くて優しいな」 すぐには返答せず、少しの間を置いてから静かに告げた。 「ねえ……もし本当に好きな人ができたなら、私、身を引くわ。離婚してもいい」 望み通りにしてやるつもりだった。 恭弥の顔色が一変し、苛立ちを隠さずに眉をひそめる。 「千春の面倒を見たことをまだ根に持ってるのか?言ったはずだろ、あいつはうちのアンバサダーだから面倒を見てるだけだ。変な勘繰りはやめろよ。 千春を悪く言うな。あいつのことは妹としか思ってないんだから」 それだけ吐き捨てると、恭弥は寝室を出て行ってしまった。 なぜ麻奈美が唐突に離婚を口にしたのか、理解できない。 千春が帰国し、ただ若かりし頃の心残りを埋めたかっただけに過ぎない。 部屋に取り残された麻奈美の頬を、止めどなく涙が伝い落ちる。 まだシラを切り通すつもりなのだ。 ただの妹だと本気で言うなら、なぜ我が子を千春に差し出そうとするのか。 最初から正直に打ち明けてくれていたなら、縋り付いて邪魔をする気など毛頭なかった。 * 一睡もできぬまま夜を明かし、麻奈美は翌朝一番で弁護士事務所を訪れた。 「村瀬恭弥とは事実上の秘密婚です。一切の財産分与を放棄しますので、財産放棄の合意書を作成していただけますか。その後の離婚手続きに関する一切の対応も、先生に一任します」 面談を終えた直後、スマートフォンが激しく震え始めた。 千春からのメッセージだった。 【お姉ちゃんって呼ぶべき?それとも村瀬の奥さんかしら? あんたの母親もうちの母親に敵わなかったんだから、あんたが私の相手になるわけないでしょ。空気を読んで、さっさとその座を譲ったらどう? 恭弥さんが愛してるのは私よ。あんたも分かってるんでしょうけど、ただの身代わりに過ぎないんだから】 麻奈美は瞳を閉じた。 忌まわしい過去の記憶が胸をかすめる。 誰も知らないが、千春とは異母姉妹だった。 かつて父の川辺公彦(かわべ くにひこ)と母の菅野君江(かんの きみえ)は、田舎で慎ましい夫婦生活を送っていた。 君江は夫を支えて苦労を重ね、すっかり体を壊してしまう。 やがて公彦は事業で成功を収め、社長へと上り詰めた。 しかし麻奈美が生まれた翌年、父は外から生まれたばかりの娘――千春を抱いて帰ってきた。 母は取り乱すこともなく、翌日には離婚届を突きつけ、麻奈美を連れて田舎へ戻った。 母と2人で過ごしたあの田舎暮らしこそが、人生で最も満ち足りた時間だった。 その後、君江は過労が祟って胃がんを患った。 麻奈美は父に母の治療費を用立ててほしいと泣きついた。 だが公彦は一度も見舞いに訪れることすらなく、千春を連れて華やかなパーティーに顔を出し、誰もが羨む令嬢として持て囃していた。 君江が危篤に陥った日、麻奈美は床に膝をつき、必死に医師へ母を助けてほしいと懇願した。 その場を偶然通りかかった恭弥が、麻奈美の瞳に目を留め、何かに導かれるように手を差し伸べた。 母を特別病室へと移し、一流の医療体制を整えてくれた。 3か月後に君江が息を引き取った際も、恭弥がすべての葬儀を取り仕切ってくれた。 麻奈美は心から恩義を感じていた。 祖父から結婚を急かされていた恭弥に求婚されたとき、迷わず頷いたのもそのためだった。 結婚の翌日、麻奈美は母の墓前で、もう心配いらないと伝えた。 人生で最高の人に出会えたのだと。 まさか、愛していたのは自分ではなかったなど、思いもしなかった。 止まらない通知の振動が、意識を引き戻した。 再び千春からのメッセージだ。 そこにはトーク履歴のスクリーンショットと、1本の動画が添付されていた。 写真の中の千春はレースの猫耳をつけ、白い素肌を惜しげもなく晒しながら、蕩けた瞳でレンズを見つめている。 【恭弥さん、子猫ちゃんがご主人様に会いたがってるよ。来てくれたら、好きにしていいから】 その下には、恭弥の黒いアイコンから素っ気ない返信が並んでいた。 【20分で行く】 動画を開くと、千春が恭弥の腰にしがみつき、男の低いうめき声と女の甘い嬌声が入り混じっていた。 麻奈美は画面を伏せ、瞳を閉じた。 胸を貫く痛みを必死に抑え込む。 これまでに散々見せつけられてきたのだから、もう感覚も麻痺したはずだった。 それなのに、止めようのない痛みが全身を駆け巡る。 その夜も恭弥は帰ってこなかった。 だが千春から送られてくるメッセージによって、行動は筒抜けだった。 玄関先からリビング、寝室に至るまで、脱ぎ散らかされた衣服の写真。 普段、麻奈美に向ける態度とはまるで別人のようだった。 自分に対しては常に紳士的で自制を保っていた男が、千春の前では剥き出しの欲望を解放している。 千春は、30個もの使い切った避妊具と、全身に刻まれたキスマークの写真を送りつけてきた。 【恭弥さんって、あんたにもこんなことしてくれた?ベッドの上じゃマグロみたいで、全然満たされないって言ってたわよ】 麻奈美は一切返信せず、無言でトーク履歴を保存した。 ベッドに入り、浅い眠りを彷徨っていた麻奈美は、甲高い着信音に叩き起こされた。 電話口から、恭弥の切羽詰まった声が響く。 「麻奈美、頼むから胃薬を1箱持ってきてくれ。ヴェリタスのVIPルームだ」 持病の胃痛がぶり返したのだと思い、麻奈美は上着を羽織ってタクシーに飛び乗った。 個室の扉に手をかける直前、中から品のない嘲笑が漏れ聞こえてきた。 「おい恭弥、お前のあの言いなり女、本当に来ると思うか?」 第4話 麻奈美は息を呑み、思わず足を止めて耳を澄ませた。 恭弥がどう答えるのか確かめたかった。 だが次の瞬間、扉の向こうからくぐもった笑い声が届く。 「当たり前だろ。あいつは昔から聞き分けが良くて従順なんだ」 麻奈美の口元から自嘲の笑みが漏れた。 たとえ秘密婚だとしても、れっきとした妻のはずだ。 それなのに、都合のいい言いなり扱いされていいはずがない。 だが恭弥は庇うどころか、その嘲笑を当然のように肯定していた。 深く息を吸い込み、扉を押し開けて足を踏み入れる。 恭弥の隣には、ぴったりと寄り添う千春の姿があった。 部屋を満たしていた喧騒が、ぴたりと途切れる。 事情を知る1人の男が、気まずさを誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。 「麻奈美さんも来たんだ。ほら、座って」 集まっているのは恭弥の親しい友人たちだが、麻奈美が彼に釣り合うとは思っておらず、妻としての立場など誰も認めていなかった。 麻奈美は恭弥に薬を差し出した。 「頼まれていた薬よ。早く飲んで」 それだけ告げて踵を返そうとすると、恭弥がわずかに眉を寄せ、すかさず千春が手首を掴んできた。 「わざわざ届けてくれてありがとう。要らないって言ったのに、恭弥さんが心配して呼んじゃって……ごめんなさいね」 千春の声に含まれたあからさまな優越感に、苦いものが広がる。 薬を届けさせたのは、自分のためではなく千春のためだった。 千春はそのまま言葉を重ねた。 「せっかく来てくれたんだし、一緒に遊んでいきましょうよ」 感情の読めない冷ややかな眼差しに、恭弥はなぜか苛立ちを覚えたようだった。 不機嫌そうに顔を強張らせて言い放つ。 「何ゲームか付き合えよ。みんな顔見知りなんだから、そうやって澄まし顔で気取るな」 麻奈美の顔から血の気が引いた。 彼にとって、自分の態度はただの気取りに映っている。 だが、結婚してからの3年間、一度も関係を公にせず、あらゆる集まりから遠ざけてきたのは恭弥自身だった。 彼の交友関係に馴染めるはずもなく、ここにいる友人たちのことなど知る由もない。 麻奈美は恭弥から最も離れた、部屋の隅の席に腰を下ろした。 ゲームが始まると、恭弥の手ほどきを受ける千春は一度も負けることなく勝ち進む。 一方、こうした遊びに馴染みのない麻奈美はルールすら分からず、立て続けに負けを重ねてしまった。 千春が悪戯っぽく目を細めて笑う。 「麻奈美さん、負けちゃったね。罰ゲームがあるわよ」 周囲の男たちも囃し立てるように声を上げた。 「そうだな、負けたら罰ゲームを受けるのがルールだ」 千春は寛大さを装いながら言った。 「麻奈美さんには少しハンデをあげましょうか。そこに並んでる罰ゲーム用のショットグラス、全部飲み干すだけでいいから」 麻奈美の顔が青ざめる。 数日前に中絶手術を受けたばかりで、医師からは厳重に禁酒を言い渡されていた。 それを聞いた恭弥も眉をひそめた。 麻奈美が酒に弱いことを知っている彼は、口を開きかける。 しかし千春がすかさず、無邪気さを装った瞳で遮った。 「まさか、ノリが悪いなんてこと、ないんだよね?」 麻奈美は深く息を吸い込み、恭弥へと視線を向けた。 彼はただ眉を寄せたまま、黙って見つめているだけだった。 ――何を期待していたのだろう。 苦い笑みが唇に浮かぶ。 「……飲むわ」 恭弥の表情が一気に険しくなった。 なぜ自分に助けを求めないのか。一言頼ってくれさえすれば、助けてやったものを。 一口飲んだだけで喉が焼けつくように激しくむせ返り、涙が溢れ出した。 1杯、また1杯と流し込むにつれ、麻奈美の顔色は白さを増していく。 最後のグラスを飲み干した瞬間、思わず下腹部を押さえ、激痛に全身を震わせた。 「全部飲んだわ。あとは皆さんで楽しんで。私は帰るから」 恭弥が駆け寄り抱き止めようとした瞬間、千春がすっと腕に絡みついた。 「恭弥さん、麻奈美さんも疲れてるみたいだし、帰って休ませてあげましょ?私たちで続きをやりましょ」 恭弥の足が止まる。 遠ざかっていく細い背中を見送りながら、苛立ちが胸の奥で渦巻いていた。 病院に駆け込んだ麻奈美は、胃洗浄を受けて意識を手放すように眠りに落ちた。 だが眠りは浅く、夢の中には恭弥ばかりが現れる。 優しく微笑みかけてきたかと思えば、次の瞬間には冷酷に突き放してくる。 胸を抉られるような痛みに襲われて目を覚ますと、頬は涙で濡れていた。 スマートフォンを手に取る。 タイムラインには、3時間前に千春が投稿した写真が並んでいた。 恭弥と恋人繋ぎで指を絡め合う手元、口移しで酒を飲ませ合う甘い一幕。 恭弥は愛おしそうに表情を緩め、千春は満面の笑みを浮かべている。 それらを見届けた麻奈美は、静かに「いいね」を押した。 カレンダーを開く。 あと7日。 それだけで、永遠に恭弥のもとを去ることができる。 二度と、この人生で巡り合うこともない。 第5話 目を覚ますと、恭弥がベッドの脇に立ち、静かにこちらを見つめていた。 どれほどの間、そうしていたのかは分からない。 気がついた恭弥は身を乗り出して麻奈美を抱き寄せ、水の入ったグラスを口元へ運んだ。 体に力が入らず、なすがままに水を含んだ。 「昨日のことは千春を悪く思わないでやってくれ。あいつ、少し悪ふざけが過ぎただけなんだ……」 そっと身を引いて恭弥の腕をすり抜け、小さく首を横に振った。 「別に気にしてないわ。勝負に負けたんだから、罰を受けるのは当然よ」 青白い顔を見つめ、恭弥の胸に痛ましさが込み上げる。 「このところ忙しくて構えなかったのは悪かったと思ってる。明日の午後にオークションがあるんだ。一緒に行こう。好きなものを何でも買ってやるから」 断ろうと口を開きかけたが、出国まであと数日しかないことを思い出した。 今ここで勘付かれては、無事に発つことすら難しくなる。 そう思い直し、静かに頷いた。 「……ええ」 * 翌日のオークション会場。 機嫌を取ろうと、恭弥は前半に出品されたあらゆる宝飾品を大金を投じて片っ端から落札していった。 麻奈美が微塵も興味を示していないことなど、気にも留めずに。 幕間の休憩に入ると、待ち構えていた記者たちが一斉に押し寄せてきた。 「村瀬さん、これまで独身を貫かれてきましたが、本日これほどの宝石を落札されたということは、パートナーがいらっしゃると受け取ってよろしいでしょうか」 「その幸運な女性がどなたなのか、教えていただけませんか」 「村瀬家の女主人をついにお迎えになったのですか」 矢継ぎ早の質問にも、恭弥は余裕の笑みを崩さない。 「名前までは明かせませんが、意中の相手がいることだけはお伝えしておきましょう」 言葉が終わるや否や、会場中から割れんばかりの歓声が上がった。 ムラゼテクニックの若き社長・村瀬恭弥に恋人がいるとなれば、業界きっての大スクープだ。 「村瀬さん、お相手についてもう少し詳しく教えてください!」 詰め寄る記者たちを前に、恭弥はちらりと麻奈美を見やり、少し躊躇う素振りを見せてから口を開いた。 「パートナーは……」 麻奈美も息を詰めて見つめていた。胸の奥がざわつく。 ついに公表するつもりなのだろうか。 その瞬間、恭弥の言葉がぴたりと止まった。 視線が正面の一点に釘付けになる。 つられて全員が振り返った。 深紅のロングドレスに身を包み、純白のヒールを鳴らしながら、千春が優雅に歩み寄ってくる。 堂々とした態度でカメラに手を振ると、千春は恭弥のすぐ隣の席へと腰を下ろした。 隣にいる恭弥が息を呑んだのを、麻奈美ははっきりと感じ取った。 周囲からひそひそとした囁き声が漏れ聞こえる。 「やっぱり、川辺さんが村瀬社長の意中の相手だったんじゃないか」 露出度の高い妖艶なドレス姿を見つめ、恭弥の瞳が微かに暗く濁る。 千春が何気ない仕草で身をかがめると、恭弥に向けて惜しげもなく白い素肌が覗いた。 呼吸が荒くなるのを、麻奈美ははっきりと耳にした。 視線を逸らし、胸を突く不快感を必死に押し殺す。 後半の競売が始まっても、心は上の空だった。 だが、目玉となる最後の品が壇上に上がった瞬間、麻奈美は息を呑んだ。 サファイアがあしらわれたブレスレット。 亡き母の遺品だった。 息を引き取る際に母が遺してくれた大切なもので、結婚後は箱の奥にしまっていたはずだった。 それなのに数日前、どうしても見当たらなくなっていた。 ずっと胸を痛めていたというのに、まさかこんな場所に出品されているとは思いもしなかった。 ブレスレットを食い入るように見つめ、何としてでも取り戻すと心に決める。 紹介が終わるや否や、迷わず番号札を掲げた。 「500万」 恭弥が怪訝そうに横目で見る。 なぜこの品にこれほど執着するのか理解できない様子だ。 千春はもちろん、そのブレスレットの由来を知っていた。 勝ち誇った笑みを浮かべ、札を掲げる。 「1000万」 麻奈美が勢いよく振り向くと、千春が露骨に挑発的な視線を投げかけてきた。 深く息を吸い込み、さらに声を張り上げる。 「2000万」 千春は小さく笑い、恭弥にすがるような声を上げた。 「あのブレスレット、すごく気に入っちゃった。譲ってもらえないかな」 恭弥は麻奈美に向き直る。 「今日はもう十分買っただろ。あれは千春に譲ってやれ」 麻奈美は首を横に振った。 「あなたが買ったものなんて全部要らない。私にはあのブレスレットだけでいいの」 頑なな態度に、せっかく買い与えたものを否定された恭弥の胸中に苛立ちが湧き上がった。 競売人が3度目のハンマーを振り下ろそうとしたその瞬間、恭弥は無言で手元の番号札を高く掲げた。 「5000万」 恭弥は札を掲げたまま下ろさない。 競売人は即座に意図を汲み取った。 これ以上誰が競り合おうと、上限なしで落札するという意思表示だ。 だが、その必要はもはやなかった。 あまりにも相場を逸脱した金額に会場はどよめき、追従する者は誰もいない。 「5000万円、3回……落札です、おめでとうございます」 木槌が乾いた音を響かせた。 信じられない思いで見つめる麻奈美に、恭弥は冷淡に言い放つ。 「あのブレスレットは俺が買い取った。千春にプレゼントする」 瞳から光が消え去った。 両手を強く握り締め、爪が手のひらに深く食い込む。 千春が満面の笑みで恭弥の腕に絡みつき、VIPルームへと向かっていくのを、麻奈美はただ立ち尽くして見送った。 うつむいた手元のスマートフォンが震え、画面に1件のメッセージが表示される。 【控室に来て。いい見せ物があるから。見終わったらブレスレットをあげる】 第6話 扉に手をかける直前、艶めかしい女の嬌声と男の低いうめき声が耳に飛び込んできた。 その場に立ち尽くし、焦点の合わない瞳で中のやり取りを聞いていた。 「恭弥さん、やっぱり私を一番愛してくれてるのね」 恭弥が掠れた声で返す。 「じゃあ、どんなふうに礼をしてくれるんだ?」 千春が甘く笑う。 「ご主人様、好きなようにめちゃくちゃにして」 直後、千春の甲高い叫び声と激しい物音が響き渡った。 どれほどの時間が経っただろうか。ようやく中の気配が静まった。 麻奈美の心は、とうに麻痺していた。 紅潮した顔の千春が、手にしたブレスレットを弄びながら扉を開けた。首元には無数の赤い痕が散っている。 続いて出てきた恭弥は、扉の前に佇む麻奈美の姿を認めるなり、露骨に動揺を見せた。 「いつからそこに……?さっきの、聞いてないよな?」 麻奈美は無理に口角を上げた。 「今、着いたところよ」 千春は麻奈美の目の前で、もったいぶるように包みの布を開いた。 その瞬間、手を滑らせたふりをして落とす。 ブレスレットは乾いた音を立てて床にぶつかった。 あしらわれていた数粒の宝石が甲高い音を立てて外れ、四方へ転がっていく。 「あら、壊れちゃった」 千春は甘えるように視線を向けた。 「恭弥さん、うっかり手を滑らせちゃって……ごめんなさい」 恭弥はあやすように言う。 「構わないよ。壊れたなら、また新しいのを買ってやるから……」 言い終わらないうちに、麻奈美はその場に膝をついた。 上着を脱いで床に広げると、散らばった宝石を1つひとつ、震える手で拾い集めて布の上へ乗せていく。 床に這いつくばって探す無様な姿に、千春は口元を歪めて冷笑を浮かべた。 一方、恭弥は苦々しげに眉をひそめる。 腕を乱暴に引き起こし、苛立ちを露わにした。 「立場を弁えろよ。ただのブレスレットだろ?何をそんなに取り乱して……」 だが、言葉は途中で途切れた。 麻奈美の頬を止めどない涙が伝い落ちていたからだ。 その手を振り払い、たまらず感情を爆発させた。 「母が遺してくれた、最後の形見なのよ!ちゃんと家にしまってあったのに、どうしてこんな場所にあるの……!?」 絶望に染まった瞳で見つめられ、恭弥は口を開きかけたものの言葉を失った。 君江の遺品だとは知る由もなかった。 誰が私物に触れたのか、記憶がよぎる。 以前、千春にせがまれ、麻奈美と暮らす新居で体を重ねたときの光景が脳裏に浮かんだ。 「……お前が持ち出したのか」 千春に向き直る。 相手は無実を装うように瞳を瞬かせた。 「恭弥さん、違うの、聞いて……」 その隣で、麻奈美は涙に濡れた目を伏せている。 瓜二つの瞳のはずなのに、今の恭弥には千春の表情が無性に苛立たしく映った。 「二度とこんな真似はするな」 低く警告を突きつける。 これ以上2人と関わる気力もなく、壊れたブレスレットを抱えてその場を後にした。 恭弥が後を追おうと足を早めると、千春が腕にすがりついてくる。 「今夜はキャンドルディナーに連れていってくれる約束でしょ?」 その手を振りほどき、恭弥は苛立ちを抑え込んだ。 「また今度にしろ」 麻奈美に追いつき、背中に向かって声をかける。 「修復できる職人を探すよ」 振り返ることもなく、前だけを見据えて歩き続ける。 「結構。自分で何とかするから」 冷淡で頑なな態度に、恭弥は呆然と立ち尽くした。 忘れていた。 麻奈美はかつて、大学を卒業する前から研究機関に異例の抜擢を受けるほど優秀な研究者だった。決して、自分に養われるだけの籠の鳥などではない。 それなのに、この数年間はずっと家に籠もって自分の世話に尽くしてくれた。 そう思い至った瞬間、胸の奥に罪悪感がじわりと広がる。 足を止め、言葉を絞り出した。 「……悪かった。母親の形見だったなんて、本当に知らなかったんだ」 かつて傲慢そのものだった男が謝罪を口にするのを耳にして、思わず足を止める。 だが、小さく首を横に振った。 「いいのよ」 今日、あのブレスレットと共に砕け散ったのは、彼女の心そのものだった。 この男への情愛は、完全に冷め切っていた。 恭弥は自分のジャケットを脱ぎ、肩に掛けた。 その生地から微かに漂う千春の香水の匂いに、激しい吐き気を催してえずいてしまう。 その様子を見た恭弥は目を丸くし、やがて喜色を浮かべた。 「もしかして妊娠したのか?」 麻奈美の唇に自嘲の笑みが浮かぶ。 数日前、2人の子を自ら堕ろしたことなど知るはずもない。 「違うわ。昨日、生理が来たの」 落胆を見せながらも、恭弥は宥めるように言った。 「そうか……まあいいさ、俺たちはまだ若いんだ。子供なんて、そのうちいつでもできる」 麻奈美の瞳に笑みは宿らなかった。 2人に「そのうち」など二度と訪れない。 あと5日。 そうすれば千春に場所を譲り、恭弥の前から完全に姿を消すことができる。 最近の麻奈美に対する違和感を、恭弥は拭えずにいた。 理由のわからない不安が胸をよぎるが、麻奈美には頼れる家族も友人もいない。何より自分を深く愛し、素直で従順な女なのだから去るはずがないと自分に言い聞かせた。 細くなった肩を抱き寄せ、冷え切った手を包み込みながら車へと促す。 麻奈美はされるがまま助手席に乗り込んだ。 シートの隙間から、使用済みの避妊具が覗いているのが目に入る。 千春が見せつけるためにわざと残していったのだと察し、深く息を吸い込んで窓の外へと視線を向けた。 恭弥に対する愛のかけらは、完全に消え失せていた。 第7話 帰宅するなり、麻奈美は客室へと閉じこもった。 心身ともに疲れ果て、これ以上恭弥と愛想笑いを交わす気力すら残っていなかった。 外れた宝石を、1晩かけて元の位置へ丁寧に貼り直していく。 作業を終え、強張った肩を軽く揉みほぐした。 スマートフォンを確認すると、幸人からの気遣うメッセージと、千春からの罵詈雑言が届いている。 千春の通知には目もくれず、幸人の番号をタップした。 コールは1回きりで、すぐに柔らかな落ち着いた声が返ってくる。 「こんな時間まで起きていたのか?」 穏やかな声を聞いた途端、ささくれ立っていた心が不思議と軽くなった。 「まだ起きていました。先輩、何か用事だったんですか?」 電話の向こうで、微かに笑う気配が伝わってくる。 「いや、こっちは最近少し肌寒くなってきたからね。厚手の上着を用意しておいたほうがいいと思って連絡したんだよ」 温かな気遣いに、胸の奥へじんわりと温もりが染み渡る。 そのまま学生時代の思い出話に花を咲かせ、自然と笑みがこぼれた。 ここ数日の間で、初めて心から笑えた気がした。 通話を終え、小さく鼻歌を口ずさみながら扉を開けると、すぐ目の前に恭弥が立っていた。 目尻に残る微かな笑みを見咎め、怪訝そうに眉を寄せる。 「……誰と電話してたんだ?そんなに楽しそうに笑って」 すっと表情を消し、淡々と返した。 「昔の同級生よ。何か用?」 冷ややかな態度に気圧され、恭弥は苛立ちを隠せない様子で問い詰めてくる。 「お前、最近やけに冷たいじゃないか。一体どうしたんだよ」 思わず乾いた笑いが漏れそうになった。 どうしたのか、などと本気で聞いているのだろうか。 「特に用がないなら、もう休むわね」 胸の奥に苛立ちが込み上げ、恭弥は冷ややかに告げた。 「明後日は川辺家のパーティーだ。出席するのを忘れるなよ」 父親と千春の顔など二度と見たくない麻奈美は、即座に拒絶した。 「行かないわ」 冷たく突き放すような瞳を見つめ、恭弥は言葉を飲み込みかけたが、すぐに不機嫌そうに吐き捨てた。 「村瀬の妻という立場があるんだから、少しは聞き分けよくしろ。当日は俺に同行してもらうからな」 返事を待つこともなく、恭弥は背を向けて立ち去った。 その背中を見送りながら、口元に皮肉な笑みが浮かぶ。 結婚して3年間、公の場へ連れ出そうとしたことなど一度もなかった。 今さら妻としての立場を認めるつもりなのだろうか。 どちらにせよ、もう何の未練もなかった。 * 翌朝、弁護士から委任契約書と財産放棄の書類を受け取った。 迷うことなく署名し、その足で恭弥の執務室へと向かう。 恭弥は仕事の最中だったが、ワイシャツの襟元に残る口紅の痕が、何より雄弁に昨夜の出来事を物語っていた。 一瞥しただけで視線を逸らし、1束の書類をデスクに置く。 表紙には不動産の購入契約書が据えられ、末尾には署名欄だけが覗くよう巧妙に折り込まれた離婚届が重なっている。 「家を1軒買いたいの。サインして」 これまで何ひとつねだることのなかった麻奈美の唐突な要求に、恭弥は怪訝な顔をした。 中身を確かめようとページをめくりかける手元を遮るように、言葉を投げかける。 「家の一軒くらい、私に買い与えるのも惜しいの?」 図星を突かれたように苛立った恭弥は、書類に目を通すこともなく乱暴にペンを走らせた。 「ほら、書いたぞ。仕事の邪魔だから、さっさと出ていってくれ」 苛立ち紛れに口走ったものの、すぐに後悔を覚える。 本当は、麻奈美にここに留まってほしかった。 だが何も聞こえていないかのように、麻奈美は淡々と書類を回収して踵を返した。 苛立つ恭弥の視線など、最初から気にも留めていなかった。 ビルを出た麻奈美は、これまで千春から送りつけられてきた挑発メッセージをすべてプリントアウトした。 さらに自身の妊娠診断書と中絶手術の記録を揃え、1つのギフトボックスに丁寧に収める。 恭弥と千春が密会を重ねていた動画をUSBメモリにコピーし、手配した配達代行業者へと手渡した。 「明日、このデータを受付に届けて、会場のモニターでループ再生するよう手配してください」 明日は川辺家のパーティーであり、自分がこの国を飛び立つ日でもある。 この贈り物を、2人が気に入ってくれるといい。 その夜、再び千春から届いたメッセージを開くことなく着信拒否にした。 恭弥から買い与えられた高価なプレゼントや宝飾品、ブランド物のバッグや服は、すべてクローゼットに残す。 そして枕の下には、1枚のキャッシュカードと暗証番号を記したメモを滑り込ませた。 研究機関のために学術論文を翻訳して自力で稼いだ報酬だ。 これで、何ひとつ借りを作ることもない。 帰宅した恭弥は、私物が片付けられてがらんとした部屋を見回し、胸騒ぎを覚えた。 「俺が買ってやった物はどうしたんだ?」 「使い慣れないし、自分のものではない物は手元に置きたくないの」 ――あなたと同じ。 私のものじゃないなら、もう要らない。 恭弥は麻奈美を強く抱きしめ、囁くように言った。 「生理はもう終わっただろ?今夜は……」 すっと身を引き、その腕を解く。 「今日は気分が優れないの。また今度にして」 恭弥の表情に明らかな不快感が走った。 ここ最近、麻奈美は頑なにスキンシップを拒み続けている。 今夜だって千春の引き連れを振り切って帰宅したというのに、この仕打ちだ。 ドアを激しく叩きつけるように閉め、部屋を出て行った。 麻奈美は冷めた瞳でその扉を見つめる。 3年間、全身全霊で尽くしてきた相手の姿に、急激な虚しさが押し寄せてくる。 3年間の情など、これで完全に終わりだった。 第8話 翌日、麻奈美は飾り気のない身軽な服装に着替え、タクシーで川辺家の屋敷へと向かった。 今日のパーティーには各界の名家から若き俊英たちが集う。 父の公彦は、この場で千春の婿選びとなる縁談を取りまとめるつもりだった。 ここ数年、川辺家は村瀬家の後ろ盾を得て、上流階級へと上り詰めている。 開宴前、きらびやかな正装に身を包んだ令息令嬢たちの中で、麻奈美の姿は完全に浮いていた。 しかし気にする様子もなく、静かな片隅を見つけて腰を下ろした。 しばらくすると、ダイヤのティアラを戴き、華やかなドレスを纏った千春が、取り巻きに囲まれながらゆっくりと階段を降りてきた。 白く透き通る肌に、完璧なメイク。 まるで女神を思わせる美しさだ。 その傍らに立ち、誰よりも視線を集めていたのが恭弥だった。 名門財閥の跡取りである。 黒のスーツをすらりと着こなし、眼差しは涼やかで端正だ。 千春のドレスの裾を優しく持ち上げてエスコートしており、誰もが見惚れる美男美女の並びだった。 周囲からは感嘆と羨望の声がひっきりなしに上がる。 「まあ、あそこにあしらわれているのは最高級の南洋真珠かしら。あのティアラ、億は下らないそうよ」 「見て、あのドレス。世界に1着しかないデザイナーの特注品じゃない」 「聞いた話じゃ、全部村瀬社長が用意したらしいわよ。3年も海外に行っていたのに、ずっと一途に愛し続けていたなんて素敵」 「本当に羨ましい。絵に描いたようにお似合いの2人ね」 麻奈美は静かにざわめきを聞き流していた。 胸の奥に波風ひとつ立たない。 周囲からの賛辞を満足げに浴びていた千春は、ふと視線を巡らせ、人混みの中にいる麻奈美を捉えた。 赤ワインのグラスを手に取り、笑みを浮かべて近づいてくる。 「あら、来てたんだ。おもてなしもできなくて悪かったわね」 みすぼらしい身なりを見咎め、周囲から嘲笑が漏れ、恭弥も険しく眉を寄せた。 千春は親しげに腕を取り、言葉を続ける。 「乾杯しましょう」 仕方なくグラスを受け取ろうとしたが、指先が触れる寸前、千春が手を離した。 ワインは容赦なく服へこぼれ落ち、砕け散ったグラスの破片が跳ねて千春の足首をかすめる。 「きゃっ……足が!」 痛ましげな悲鳴に、恭弥は咄嗟に身をかがめて足元を確かめた。 千春は目に涙を浮かべ、訴えかける。 「私のことが気に入らないからって、グラスを落とすなんて酷いじゃない……」 周囲の招待客たちも、千春を庇うように次々と野次を飛ばした。 「見たところ田舎娘だな。礼儀も作法もなっていない」 公彦は麻奈美の顔を認めるなり、不快感を露わにして眉根を寄せる。 「うちの大事な娘に怪我をさせておいて、謝罪の1つもないのか。どんな躾を受けてきたんだ」 どれほど長い年月会っていなかったとはいえ、胸に鋭い痛みが走った。 自分も同じ娘だというのに、躾がなっていないと罵られる。 先に手を離したのは千春なのに、ここにいる全員が自分を責め立てていた。 立ち尽くしたまま口を開かないでいると、恭弥も冷たい声を浴びせてくる。 「怪我をさせたんだから、早く謝れ」 胸を抉られるような痛みを覚えながら、千春へと言葉を絞り出した。 「……ごめんなさい」 俯く姿に恭弥の胸が一瞬痛んだが、何も言わず千春を抱き上げ、手当てのために去っていった。 周囲の嘲笑を浴びながら、濡れた服のまま客室へ向かった麻奈美は、用意されていた使用人の服に着替えた。 身なりを整えて階段を降りると、手当てを終えた千春が待ち受けていた。 薄ら笑いを浮かべて見つめてくる。 「お母さんが亡くなった本当の理由、知りたくない?」 麻奈美は目を見開き、信じられない思いで見つめ返した。 母の死に、まだ何か裏があったというのか。 「……何を知っているの?教えて」 焦りを露わにする姿を見て、千春は堪えきれずに嘲笑を漏らした。 「ついてきてくれたら、教えてあげる」 第9話 千春の後に続き、人影のないプールサイドへと足を踏み入れた。 千春は取り繕うのをやめ、勝ち誇った笑みを浮かべる。 「そのみすぼらしい格好じゃ、誰も川辺家の令嬢だなんて気づかないわね」 感情を乱すことなく、麻奈美は静かに問いかけた。 「母さんはあのとき、どうして亡くなったの?」 恭弥が特別病室を手配してくれてからは、病状も目に見えて回復していた。 それなのに、あの日病院へ駆けつけたときには、突如として危篤を告げられた。 千春は残酷な笑みを深め、1言ずつ吐き捨てた。 「私が人を雇って、あの女の酸素マスクを外させたのよ。あんたもあの女も、死んで当然の人間なんだから」 頭の中が真っ白になった。 母の酸素マスクを外させた――その言葉が、耳の奥で激しく反響する。 誰かがこちらへ歩いてくる気配を察知した千春は、さらに挑発的な声を張り上げた。 「大人しく田舎にいればよかったものを、図々しく恭弥さんを奪おうとするからよ」 激しい怒りが全身を駆け巡り、千春の頬を容赦なく張り飛ばした。 口元から血を流し、千春は大声を上げて泣き喚く。 騒ぎを聞きつけた客たちが集まり始め、異変に気づいた恭弥も焦りを露わにして駆け寄ってきた。 それでも怒りの収まらない麻奈美は、千春の顔面へさらにもう一撃を叩き込む。 千春は涙を流しながら叫んだ。 「ごめんなさい、もう叩かないで……謝るから……!」 そう口走ると同時に麻奈美の手首を強く引き寄せ、もつれ合うようにしてプールへと落ちた。 着水の衝撃で縁に額を強打し、傷口から血が滲み出す。 激しい眩暈が襲った。 駆けつけた恭弥は迷わず水中に飛び込み、真っ先に麻奈美のほうへと泳ぎ出す。 「助けて、私泳げないの!早く助けて……!」 千春の泣き叫ぶ声に、恭弥の動きが一瞬止まった。 次の瞬間には千春へと進路を変えている。 千春を抱き上げた恭弥は、水面に浮かぶ麻奈美を振り返り、露骨な失望の色を浮かべた。 秘書に救助と病院への搬送を指示すると、恭弥は足早にその場を後にする。 麻奈美の体は、冷たい水の中へとゆっくり沈んでいった。 目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。 付き添っていた看護師が、心配そうに声をかけてくる。 「先日流産されたばかりなのに、今度は水に落ちるなんて……もっとお体を大事にしてくださいね。ご主人は、まだいらっしゃらないんですか?」 麻奈美は何も答えず、壁の時計に目をやった。 離陸まで、あと2時間。 看護師が部屋を出ていくのを見計らい、腕の点滴針を引き抜いた。 そのまま自宅へ戻って手早く荷物をまとめると、タクシーを拾って空港へと向かった。 * 同じ頃、傷の手当てを終えた千春は、ドレスを着替えて会場へと戻っていた。 鏡を覗き込む。 頬はまだ痛んだが、気分は最高だった。 先ほど恭弥が麻奈美に向けた失望の眼差しを思い出す。 このまま畳み掛ければ、完全に追い出せるはずだ。 腫れ上がった頬をファンデーションで厚く塗り隠し、会場へと足を踏み入れた。 今日こそ、恭弥の口から正式に恋人だと認めさせてやる。 トラブルに見舞われながらも、宴は仕切り直されて開幕を迎えた。 千春はマイクを手に取り、照れたような仕草で口を開く。 「本日は父が婿探しの場を設けてくれましたが……実は、すでに心に決めた方がおります。その方は……」 言葉の途中で、突如として背後の大型スクリーンから艶めかしい吐息が響き渡った。 露出度の高いランジェリーを身に纏い、蕩けた瞳の女が甘く名を呼んでいる。 千春の顔から血の気が引いた。 スクリーンに大写しになったのは、千春と恭弥が激しく求め合う映像だった。 会場中が騒然となる。 「村瀬社長と川辺のお嬢様は、裏ですでにデキていたのか?」 「川辺家の令嬢が、裏ではあんなに奔放だったとはな。見ろよあの体、たまらないな……」 恭弥が激しく眉根を寄せ、千春は取り乱して動画を止めるよう叫び散らした。 その騒乱の中、受付スタッフが1つのギフトボックスを抱えて恭弥の元へと歩み寄ってくる。 「村瀬様、菅野様よりこちらをお預かりしております」 * 一方、麻奈美はスマートフォンからSIMカードを抜き取り、静かに電源を切った。 搭乗口の窓辺に寄りかかり、20年以上を過ごした街の景色を最後に見下ろす。 ――さようなら、私の故郷。 もう二度と会うことはないわ、恭弥。 第10話 怪訝そうにギフトボックスを開けると、中に入っていたのは千春が麻奈美に送りつけたメッセージの画面と、中絶手術の記録だった。 胸がきつく締めつけられる。 「妊娠2か月」の文字に視線が釘付けになった。心待ちにしていた我が子は、本当に宿っていた。 日付は半月前。 病院で麻奈美と出くわした、まさにあの日のことだった。 なぜ中絶などしたのか。 まさか、あのときの会話を聞かれていたのだろうか。 焦燥に駆られてスマートフォンを取り出し、麻奈美へ電話をかける。 だが、呼び出し音が虚しく鳴り響くだけで一向に応答はない。 千春が涙を流しながら腕にすがりつき、か弱い声を絞り出した。 「あんな動画、どうして流れたのか分からないわ……これじゃ名誉は台無しよ。今日はお父様がお婿さんを探してくれる日だったのに」 取り乱したのは束の間、千春は心中で密かに笑みを噛み締めていた。 恭弥に関係を公に認めさせ、責任を取らせるには絶好の機会だったからだ。 だが恭弥の耳に千春の言葉など届いていない。 頭の中は、麻奈美の妊娠と中絶の記録だけで埋め尽くされていた。 公彦が歩み寄り、目頭を濡らしながら恭弥を見つめる。 「恭弥君、私にはこの娘しかいないんだ。あんな動画が出回って本当に胸が張り裂けそうだよ。どうか公の場で、千春が恋人だと認めてくれないだろうか。そうすれば君や会社の体面も守られ、千春の評判も傷つかずに済む」 我に返った恭弥は、眉を寄せて逡巡した。 麻奈美を裏切る真似はしたくない。 だが父親の胸で泣きじゃくる千春の痛ましげな姿を見ていると、どうしても庇いたい気持ちが湧き上がってくる。 まずは千春を落ち着かせ、家に帰ってから麻奈美を宥めればいい――そう結論づけた。 迷う表情を見て取った千春は、しゃくり上げながら首を横に振る。 「困らせたくないの。私1人で全部背負うから……」 その健気な態度に、恭弥の罪悪感がさらに募った。 心が大きく傾く。 公彦の提案が現状における最善の策に思えてきた。 麻奈美は普段ニュースをあまり見ないし、知るはずもない。 あとでしっかり謝れば、情に流されて許してくれるはずだ――そう都合よく高を括った。 恭弥は壇上へと上がり、声を張り上げた。 「千春は私の恋人です。先ほど流れた動画はすべて捏造されたものであり、この件については徹底的に真相を究明します」 会場は静まり返り、招待客たちは互いに顔を見合わせた。 恭弥の機嫌を損ねるような真似は誰もできない。 宴が幕を閉じ、どっと疲労が押し寄せる。 麻奈美の様子を見に行きたい気持ちはあったが、自分からあっさり頭を下げるのはプライドが許さなかった。 嫉妬に狂って癇癪を起こし、子供を堕ろしてまで脅迫してきたのだと決めつける。 怒りと失望が入り混じり、まずは数日間放置して頭を冷やさせようと考えた。 千春が甲斐甲斐しく温かいしじみ汁を運び、肩を優しく揉みほぐしてくる。 従順に寄り添う可憐な姿に、機嫌も次第に持ち直していった。 千春は申し訳なさそうに身を縮こまらせる。 「今日のことは全部私のせい。麻奈美さんにちゃんと謝りたいわ」 恭弥は優しく頭を撫でた。 「お前のせいじゃない。俺があいつを甘やかしすぎたんだ。まさかここまで分を弁えない真似をするとはな」 柔らかな体が触れ合うたび、恭弥の瞳が微かに暗く濁る。 そのまま千春の体を強引に引き寄せた。 欲望を満たした後、千春を抱きかかえて最上階のスイートルームへと向かった。 元々欲求の強い恭弥にとって、大人しく慎ましい麻奈美との夜はどこか物足りなさがあった。 そこへ奔放な千春が現れ、すっかりその味を占めてしまっていた。 あと3日だけ楽しんだら、千春との関係を清算して麻奈美のもとへ戻ろう。 心の中でそう決めていた。 これからは麻奈美だけを一途に愛し、もう一度2人の子供を作ればいいのだと。

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