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私を憎んだ彼に、私は心臓を残した
5年前、私・水原雲(みずはら くも)は高橋勲(たかはし いさお)を邸宅から追い出した。 5年後、彼は名高い教授になっていた。そして私は、もう治る見込みはないと告げられていた。 彼はグラスの中の赤ワインをゆっくりと揺らし、その眼差しは冷え切っていた。 「水原社長、大金を稼ぐ仕事はやめて、どうしてホステス稼業に鞍替えしたか?」 喉の奥から苦いものが込み上げてきた。私は無理やり笑みを浮かべた。 「仕方ないんです。借金が山ほどあって。高橋教授、太っ腹なところを見せて、200万円ほど貸していただけませんか?」 彼は赤ワインを私の顔に浴びせた。 「相変わらずだな」 刃のように鋭い口調だった。 「金しか見えていない」 私を骨の髄まで憎んでいる彼を見て、私はほっとした。 ――よかった。 彼はまだ知らない。彼の胸で脈打っているのが、私の心臓だということを。
チャプター (1)
第1章
5年前、私・水原雲(みずはら くも)は高橋勲(たかはし いさお)を邸宅から追い出した。
5年後、彼は名高い教授になっていた。そして私は、もう治る見込みはないと告げられていた。
彼はグラスの中の赤ワインをゆっくりと揺らし、その眼差しは冷え切っていた。
「水原社長、大金を稼ぐ仕事はやめて、どうしてホステス稼業に鞍替えしたか?」
喉の奥から苦いものが込み上げてきた。私は無理やり笑みを浮かべた。
「仕方ないんです。借金が山ほどあって。高橋教授、太っ腹なところを見せて、200万円ほど貸していただけませんか?」
彼は赤ワインを私の顔に浴びせた。
「相変わらずだな」
刃のように鋭い口調だった。
「金しか見えていない」
私を骨の髄まで憎んでいる彼を見て、私はほっとした。
――よかった。
彼はまだ知らない。彼の胸で脈打っているのが、私の心臓だということを。
第1話
ワインが少し目に沁みて痛かった。私は目を閉じるのをこらえた。
「お金さえきちんと出していただければ、高橋教授が何とおっしゃっても構いません」
勲は笑った。けれど、その声は氷のように冷たかった。
「200万円」
彼はその数字を繰り返した。まるで、なにか面白いものでも味わうように。
「水原社長、5年前に僕がお前に頼んだ時、雨がひどく降っていた。お前は言った。『出て行きなさい。私の家を汚さないで』と」
彼は少し間を置いてから言った。
「今は、僕とお前、どちらがより汚いと思う?」
5年前のあの夜、私は彼の告白を受け入れた。そしてその直後、別の男に抱きつき、彼を邸宅から追い出した。
あの日の雨は、本当にひどかった。彼はそのまま雨の中に跪いていた。
私は門の内側に立っていた。自分でも信じられないほど、声が冷たかった。
「死にかけの病弱な奴が、よくも私と未来の話なんてできるわね。出て行きなさい。私の家を汚さないで」
私を恨んで、勲。
憎しみは愛より長く続く。憎しみさえあれば、あなたは何の負い目もなく生きていける。
5年前、医師は何度も私に確認した。
「水原社長、心臓交換手術は世界でも前例のないものです。たとえ成功しても、あなたは……」
私は署名した。
手術前夜、私は浴室で体を丸め、吐き気に耐えていた。恐怖で、もう諦めてしまいたいほどだった。
その時、手の中の写真をぎゅっと握りしめた。
写真の中の少年は、澄んだ瞳で私を見つめていた。まるで、私だけが世界のすべてであるかのように。
私は頭を浴槽の中に沈めた。
もし運命という深海で、1人が沈まなければならないのなら……
それなら、私でいい。
私でよかったのだ。
ポケットの中の心臓交換の同意書は、端が擦り切れて柔らかくなっていた。
彼は札束を取り出すと、冷たく笑った。
「いいよ。昔のよしみに免じて、今日は一度だけチャンスをやる」
一本のワインボトルが突然、私のすぐそばで割れた。真紅のワインが私の胸元に滲んだ。
「跪け」
彼は少し顎を上げ、床の惨状を指した。
「きれいに拾え。そうしたら金をくれてやる」
絨毯はワインを吸い込み、破片を深く包み込んでいた。
私は膝を折って跪き、薄暗い灯りの中で鋭く光る破片を探った。
ガラス片が手のひらに刺さり、膝をついたことで、絨毯に淡い血の跡が滲んだ。
アルコールが傷口に染みた。まるで今の心のように、鈍く痛んだ。
勲はソファに座っていた。影がその顔を覆っていた。復讐の快感などなく、隠しきれない怒りだけが滲んでいた。
彼は突然、荒々しく立ち上がると、私の顎をつかみ、無理やり顔を上げさせた。
「お前はそこまで金目当てなのか?金のためなら、尊厳まで捨てられるのか。この僕、本当に見る目がなかったんだな。金が欲しい?いいよ、くれてやる!」
札束が私の顔めがけて投げつけられ、床に散らばった。
「拾えよ。これが一番好きなんだろ?」
怒りでわずかに震える彼の肩を見て、私は再び床に這いつくばった。
彼の視線を感じながら、床の隅々まで這い回り、一枚一枚、酒の染みた紙幣を握りしめた。
私を恨んで、勲。
残りの人生すべてをかけて、私を恨んでください。「水原雲」という名前を、あなたの人生から完全にえぐり取ってしまえ。
私のことは、根っからの金の亡者で、最低な人間だと思っておけばいい。
最後の紙幣が、彼の磨き上げられた革靴の先に落ちた。
私が手を伸ばすと、彼のほうが先に腰をかがめ、散らばったものの中から場違いな紙を一枚拾い上げた。
私は無意識にポケットを探った――なかった。
全身の血が、その一瞬で凍りついた。
第2話
勲は、握りしめてしわになった紙をぱっと広げた。視線がタイトルの上で止まった。
彼の瞳孔が大きく震えた。
「心臓交換同意書?」
そのタイトルが、彼に何かを思い出させたようだった。
私はよろめきながら立ち上がり、それを取り戻そうとした――勲に真実を知られてはいけない。
それなのに彼は鼻で笑うと、私をいきなり突き飛ばした。背中が壁に激しくぶつかった。
「心臓交換同意書だと?」
彼は紙の端をつまみ、まるで汚いものでも持つような仕草で言った。
「水原社長は貧乏になった分、欲だけはどんどん膨らんだようだな。200万円も出せなくなったくせに、もっと貧しい人間から金を搾り取ろうとするとは」
彼はゆっくりと同意書を二つに折り、そのまま引き裂いた。
「お前は本当に、吐き気がするほど嫌な奴だ」
心臓を刃物で貫かれたようだった。それでも私は黙っているしかなかった。
彼を憎しみの淵へ突き落としたのは、この私だ。今感じている痛みの一つ一つも、すべて自業自得だ。
個室のドアが開き、刃のように冷たい風が吹き込んできた。薄着の私は、震えを止めることができなかった。
「勲さん、入るわよ」
勲は新垣晴(あらかき はる)を見ると、ふっと笑みを浮かべた。
「晴、寒くないか?」
その声に込められた優しさは、私がとうに忘れてしまった温度だった。
彼はコートを開き、彼女をその中に包み込んだ。
目の前の光景に胸を刺されるような思いがして、目に涙が滲んだ。かつては、この細やかな気遣いも私のものだった……
昔の勲は、私が支援していた貧しい学生だった。青く、どこかよそよそしく、それでいて全身に頑なさをまとっていた。
初めて私の邸宅に来た時は、人に借りを作るまいとでも思っているかのように、黙々と一日中掃除をしていた。
私が胃痛で苦しんでいると、彼は一晩中そばを離れず、台所でスープを作ってくれた。不器用ながらも湯たんぽまで用意してくれた。
私が机に向かって仕事をしていると、彼は黙ってそばに寄り添っていた。
そしてある時、私が顔を上げ、その驚くほど輝く瞳と目が合った。
揺れる灯りの中、彼は顔を赤らめながらも、声だけはしっかりしていた。
「雲さん、僕が将来力をつけたら、面倒な仕事は全部僕に任せてください」
……
「勲さん、この人は誰?」
冷たい風の中で震えている私に、晴が視線を向けた。
勲は私に一瞥もくれなかった。冷淡な声で言った。
「ただのホステスだよ。気に入らないなら、追い出せばいい」
晴は私を見て、ふいに笑った。
「この人が水原雲さんなの?昔、勲さんがまだ何も分かってなかった頃、ずっと面倒を見てくれたんだよね。
貧乏人を嫌って金持ちに取り入り、浮気性で、品行もよくないけれど、それでも私たちには恩があるから。
それに、あなたが人を見る目がなかったからこそ、私も勲さんに出会えたんだもん」
その言葉に込められた皮肉を聞きながら、私は手のひらを強く握りしめた。痛みで、心の奥の苦さを押し込めようとした。
彼女は、私たちの過去をこんなにも詳しく知っている。
いったい誰が、数え切れないほどの日々の中で、その過去を何度も何度も思い返してきたのだろう。
淡々と語っているのか、それとも、いまだに消えない恨みをぶつけているのか。
この何年もの間、私は暗がりに生える苔のように、ただ黙って勲を見守ることしかできなかった。
彼が成功を収め、名を上げていくのを見た。彼がますます成熟していくのを見た。そして、彼のそばに……別の誰かがいるのを見た。
今、ようやく人生の終わりが近づいたからこそ、私はやっと勇気を振り絞り、再び彼のそばへ来ることができた。
黙り込む私を見て、勲は急に苛立ちを覚えた。
「もういい。そんな昔の話をしてどうする。行くぞ」
彼は晴の手を引き、無表情のまま私のそばを通り過ぎた。
革靴が私の手を踏みつけた。それなのに、私の体は痛みを感じることさえできなかった。
彼が去っていく背中を見つめながら、心臓の鼓動はますます激しくなり、五臓六腑がねじれるような痛みを感じた。
喉の奥に血の味が込み上げ、私は彼の背後で血を吐いた。
第3話
勲の足がふと止まり、彼は振り返って私を見た。
眉をひそめ、床の血だまりに目を落とした。その目に、一瞬だけ心配の色が浮かんだ。
「どうした?お前は自分の体のこともちゃんと管理できないのか?」
私が口を開くより先に、晴が笑顔で言った。
「聞いたよ。水原さん、この何年もずっと病院に通っていて、時々、売血までしていたそうね。何か汚い病気でもうつされたんじゃない?
水原さんがあまり身持ちがよくないのは知っていたけど、お金のためとはいえ、ここまで落ちるなんて。本当に驚いたわ」
私は口を開いたが、どうしても反論できなかった。
この何年も病院に通っていたのは、病院を通じて心臓交換後の勲の状態を知るためだった。
売血も、倒産した後、薬を買うためにやむを得ずしていたことだった。
でも、どうして彼にそんなことを言えるだろう。
彼はあまりにも愚直な人だから。今は私を骨の髄まで憎んでいたとしても、きっと心を痛めるんだろう。
私の声は、自分でも聞き取れないほどかすれていた。まるで罪を償うように、独り言をつぶやいた。
「そう。売血した時に手順がいい加減で、汚い病気に感染したの」
勲の目に一瞬浮かんだ心配は、たちまち嫌悪と驚愕に変わった。
彼は拳を強く握りしめた。その声は、歯の間から絞り出すようだった。
「お前はどこまで落ちれば気が済むんだ。そんなに金を抱えて、金と一緒に墓まで持っていくつもりか?」
晴はため息をついた。
「勲さん、私たちが見殺しにするわけにもいかないでしょう。彼女はあなたに恩があるんだから、助けてあげましょうよ」
彼女は私を見つめ、目にかすかな嘲りを浮かべた。
「もうすぐ私たちは婚約するのよ。水原さん、お酒を注ぐ仕事はお上手みたいだから、その時は手伝いに来てくれない?」
彼女は勲の服の裾を引っ張り、甘えるように言った。
「いいでしょ、勲さん」
勲は鼻で笑うと、大股で歩き出した。
「勝手にしろ」
二人が去った後、私は体を引きずるようにして病院へ向かった。医師の目には、かすかな憐れみが浮かんでいた。
「もう特効薬が効かなくなっています。水原さん、奇跡でも起きない限り、あと数日ももたないでしょう」
私は病院の白い天井を見上げ、うなずいた。
「分かっています」
あの時、売血して薬を買ったのは、この日を待つためだった。
勲が一歩ずつ成長し、婚約までたどり着き、幸せで穏やかな人生を送っている姿を見るために。
それで十分だった。
「この数日のうちに、ご家族にきちんと別れを告げてください」
私は苦笑した。
「先生、私は孤児なんです。身内は一人だけです。でも、その一人を私は自分の手で敵にしてしまいました。
私が死んだら、この品物を江川大学の教授である高橋勲に渡してください」
かつて私は、人生とは金を追いかけるゲームだと思っていた。彼に出会って初めて、私は本当の意味で生きている気がした。
誰も私に、愛し方なんて教えてくれなかった。だから私は、これまでずっと自分がやってきたやり方で、勝手に決めてしまった。
財産をすべて使い果たしたことに、後悔はない。
ただ時々、よかったと思う。
愛のほかに、お金があってよかった。
そして、そのお金で、ちょうど勲の命を買い戻すことができた。
金を追いかけて人生の前半を生きてきた商人の私が、人に優しくしてもらえた。
なのに、本当に誰かのために生きようと決めた時には、金しか見えないと責められた。
医師は私の品物を受け取った。
「彼はきっと、あなたを許しますよ」
私は首を横に振り、窓の外を見た。
「許しなんていりません。私は、彼に一生恨んでほしいんです」
その時、携帯が鳴った。地元でいちばん話題になっているニュースの速報だった。
写真には、晴が結婚式で着るウェディングドレスを選んでいる勲の姿が映っていた。
彼女は彼の胸に寄り添い、二人は美男美女で、誰もが羨むほどお似合いだった。
見出しは――【江川大学・高橋教授、婚約間近。婚約者と仲睦まじく外出】だ。
私は静かに携帯を閉じ、最後の一錠の特効薬を飲み込んだ。